映画『竜とそばかすの姫』@『表現』と『不完全なわたし』 その①

映画『竜とそばかすの姫』
ご覧になりましたか?

私は映画の趣味がSF(そして激しく物理寄り)に偏っているので家族と趣味が合いません

 

ちなみに
『インターステラー』は6回
『TENET』は5回みました
家族は全くつきあってくれません笑

 

そんななかでもアニメだけは関心が重なるので、息子たちの部活のタイミングをぬって公開してすぐのときに観に行きました

『天気の子』のときもそうだけど、スッキリとした爽快感が残るというよりは、ざらりと心のなかに意識を取られる手触りみたいなものを残していってくれた映画でした

 

ここ数年、人間ってどんな生き物なんだ?という人間理解をナリワイにしている(←ということでインナーテクノロジーをやってます)わたしにはかなりヒットした映画でした

 

以下感じたことをつらつらと書いていきます
思いっきりネタバレ含むので、観てない方は観た後で読んでくださいませ

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@『表現』と『不完全なわたし』 その①

映画を見て一番に上がってきた言葉が『表現』

人間は自分の内側に表に現したい
”なにか”を持って生きていると思う

そして同時に
『表現というのはなにか特別な人がやること』
と思い込んでいる

とても『完全な人』というのがいて
そういう人が表にでて、何かを現すと思っている

そうするとわたしをはじめとした多くの人にある
『いえいえ私なんて』『こんな私が表現なんで』
が発動して

表現は
『わたしにはできないこと』
に追いやられる

自分のなかから外へ出たがっているもの
そしてそれを全力で押さえる自分

アクセルとブレーキを同時に踏むような
そんな衝動のような
とても冷徹な機械のような
その両方を抱えて生きている私

 

映画のなかで
『欠けている』描写
というのがちょこちょこ挟まる

欠けたマグカップ
片足がないワンコ

『いえいえわたしなんて』『こんな私』
これは欠けているいるわたし

私にはいつもなにかが足りない

みんな四角なのに私だけがなにか凹んでいる

そんな『不完全はわたし』は
表に出て表現することなんてできない

 

そしてお母さんの死

歌うことの楽しさを教えてくれたお母さん
大好きなお母さん

”名前も知らない子を助けにいってしまった”
お母さんは

どうしてそんなことをしたんだろう
なんでわたしを置いていってしまったんだろう

このことが痛すぎて
悲しすぎて
理解なんかとてもできなくて

すずちゃんは混乱のなかで

『わたしは置いていかれるような不完全な存在だ』

という信念を作り出したのかもしれない

 

すずちゃんがどんな信念をそこで持ったのかの真実は
測り知ることはできないけども

猛烈な悲しみと痛みのなかで
それが支離滅裂であったとしても
小さい鈴ちゃんは生きるためには何かの信念を持たざるを得なかったのだとおもう

『私は不完全。そしてそれはあってはならないものだ』

不完全さをもつことよりも
不完全さを否定することはが私たちを苦しめる

鈴はワンコを支えている
そしてワンコは鈴をいやしている
(ゆかちゃんと鈴が仲良くなるシーンは本当にワンコの存在が大きいとおもった)

わたしたちは不完全だからお互いを支え合う
不完全さは私の一部

『不完全じゃないよ、完全だよ』
はしっくりこない

不完全じゃ『ない』といわれてもそれはちょっと違うのだ

不完全がゆえの体験がわたしの人生にはある
それがわたし

 

すずちゃんはお母さんが目の前でなくなる体験だったり
歌おうとしても身体が拒否して嘔吐してしまったり
お父さんの愛情を素直に受け取ることができなかったり
その体験がぜんぶ鈴ちゃん
それが全部わたし

 

この体験がみんなちがって
これが私の中でいろんな音や色になって

”誰でもない私”

になっていく

その②に続きます!