”対話の助産師”として生きていく_私の決意表明

先日はいつもお世話になっているUmiのいえでスタッフ・講師が集まり、志を語り合いビジョンを共有する会が行われました

例年であれば、”しあわせのはじまり”という大きなお祭りを行っているUmiのいえですが、今年は状況を鑑みて中止

ただ、広い会場がとれたので、ソーシャルディスタンスをとり、心を合わせる会が開かれました

講師仲間のお子様(親御さんに了解を得ています)

 

カリンバの音色がうつくしく響く中で、いのち、育ち、生きる、生まれる、遊ぶ、食する、Umiのいえが大切にしているテーマで一人づつゆっくりと話をする
UmiのいえのFBページで音楽もきけます

 

そこには私が第一子を出産したときにお世話になった大好きな産婦人科医の早乙女先生もいらして、感動と感謝でほぼ泣いておりました

特に話すことは決めずに、その場で湧いてくることを話すことで自分でも明確になったことがあったので書き記しておきたいと思います

 

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痛みをひたすら避けたくて、頭でいろんなことを考え、合理的に楽に生きていきたい、感情なんてめんどくさいものはなければいいのにと、脳みそだけで生きていたわたしに、がつーーんと揺り戻しをかけたのは間違いなく妊娠出産育児という原始的な体験でした

 

1人目のお産の時に陣痛がこわくて、痛みを避けながらのお産と、2人目のよっしゃこいという気持ちで、サーフィンの波乗りのように陣痛にのったお産は進み具合が全然違いました。もちろん気持ちだけで全てが語られるほどお産と人間の体は単純ではないけども。ただ、痛みに対する感じ方は確実に全然違いました

 

お産の時に出会った助産師さんという人は、痛みを取り除く人ではなくて、痛みに向き合う力があなたにはある、それをあなたよりもわたしが信じている、一緒にいくよ、ひとりじゃないから一緒に行こう、と信じて寄り添ってくれる人でした

 

わたしはこのお産の時の助産師さんに言葉にならないリスペクトと憧れを抱いて、この性教育、産後支援、だっことおんぶの専門家という道を歩き始めました

 

かつてソクラテスが産婆法とよばれる対話をしていました

そしていま私が対話を用いて、人の痛みに寄り添いその人が本当は何を世界にもたらしたいと思っているのかに触れる活動をしていることは、導かれた感覚をもっています(詳しくはインナーテクノロジーへ)

 

わたしは、人が肉体的に感じる感覚、それは感情だったり直感だったり、それと頭が納得する言語的な理解をつなげていきたい。ここに情熱があります

医学的な助産師さんではないけども、そのひとが自身の痛みに触れて真実を産む時に、その人を信じて立ち会える対話の「助産師」でいたい

そう思っています

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2020年はそんな”対話の助産師”としての生き方が本格的に始まった年
いままでの学び、痛み、技術、感覚、、すべてを使って一歩づつ踏みしめて歩んでいきます