映画【インサイドヘッド】でマニアックな気づき

先日、DVDで【インサイドヘッド】をみました
ここ数年、NVCという感情を入り口に自分のいのちが大切にしたい信念につがなるテクはノロジーを学んでいることもあって、感情にフォーカスしたこの映画が気になっていました

 

ヨロコビ、カナシミといった感情のやり取りもとても面白かったのですが、わたしが一番【おぉ!!】となったのはちょっと別のところ

 

感情の二人が、思考のトンネルに入ってしまう部分があります

 

思考のトンネルに入ると、それまで立体的で丸みがあって色彩豊かな、いわゆる”キャラクター”が、丸や四角の単純な形になって、色も単色になり、立体が平面になり、最後は線になっていきます

 

つまり、思考の世界では

単純化→3次元→2次元→1次元

と次元が下がっていく様子が描かれています

 

これをみてふと、『フラットランド』という130年も前に書かれた小説の話を思い出しました

私達は立体的な3次元の世界に住んでいますが、フラットランドは、その名の通りフラット(2次元)の世界。そんな平面の世界に、球という立体が降りてきたら、どう見えるのか。

 

フラットランドは平面しか存在しないのだから、その球の断面の円が見えることになります。ゆで卵を輪切りにしていくようなものですね。

それは最初は点で、小さな円からだんだん大きくなって、そしてまた小さくなっていく
(もう少し詳しく知りたい人は『重力とはなにか 大栗博司 著』がおすすめです)

 

ドーナツみたいに真ん中に穴が開いているものが下りてきたら、最初はひとつの楕円みたいなのが、途中で二つの円に分かれて見えるでしょう

 

フラットランドに住んでいると、その二つの円は、全く別のもの、と捉えられるのかもしれません。でも立体が認知できる3次元の私達の世界ではひとつの物体(ドーナツ)ですね

 

つまり、次元が上がると、いまままで別々の物体と思っていたものが、ほんとうは同じ一つだった、ってことがあるのかもしれないと感じたのです。そして感情と自分がつながることは次元を上ることにつながるのかも、、、ということも。

 

たとえばですが、今は西洋医学・東洋医学と別れて認知しているものも、次元が上がるとそれはもともとひとつのものだったとか、人間の生活と地球環境の維持は相反するように見えるけど、次元が上がると共存できる世界があるのではないかとか

 

あ、これはわたしの単なる直感なので、科学的に哲学的に正しいかどうかとか、そんなことは検証していませんよ

でも自分のなかではとても、腑に落ちた

目に見えるものがすべてではないということは、頭では分かっていたのですが、感覚的につかめたというか

 

インサイドヘッドをみてどこにフォーカスするか、何を感じるかはそれぞれだと思います。もちろん、感情の役割もとても興味深い!今回は鈴木独自のかなりマニアックな視点での感想でした(笑)

写真とインサイドヘッドは直接関係ありません。私が好きな写真です。言葉はなくてもなにかが通じていると感じます。これも高次元では説明ができるのかも、と思う今日この頃なのです。