『うけたもう』を生きること_山伏と歩く 春の鎌倉 修験道特別リトリート

『うけたもう』

発する言葉はこれだけで、あとはただ、もくもくと歩くのよ

数年前に、いつもお世話になってるUmiのいえの女将である斉藤麻紀子さんに聞いた、出羽三山の山岳信仰に裏打ちされた修験道の話

ずっと気になってて、本を出版されたときは話も聞きにいった
感じるままに生きなさい ―山伏の流儀

いつか出羽三山まで行ってみたいのだけど、なかなか機会が合わないかなで、友人のFBの投稿から知った、鎌倉でのプチ修験道体験

題名は

身体・心・魂が整う
山伏と歩く 春の鎌倉 修験道特別リトリート

スマホの電源を切って鎌倉のお山を無言であるきます

たまに先達と共に祠やお社に祝詞をあげます

鳥の声、鈴の鳴、葉が擦れる音、花びらの舞う気配、、

その中で祈りを挟みながらただ歩く時間は

本当に心地がよい

祝詞は唄(うた)のようだった

 

私は歌うということを

音楽の授業か

歌い手の方が歌っていることでしか知らない

つまりうまく歌わないといけないものとして認知してる

でも本来、『うた』というのは

こうして祈りや

本当に嬉しときや悲しいときの

情動に音がついたものなのかもしれない

この日の夜はおそらくここ数年の中で最も深く眠れた

何も考えずにただただ歩いたからだろうか

最後に星野先達がお話しされた

今、必要なのは、学びよりも【道】

という言葉がずっと残っています

 

いろんな捉え方があると思うのだけど

答えがあるもの=学び

自分の感覚だけが知っていて、問い続けるもの=道

のようにわたしは感じました

 

星野先達とわたし
外国の旅行客に写真とられまくりでした笑

『うけたもう』
わたしにやってくる体験をただただ
『うけたもう』

このシンプルな言葉の持つ力で気がついたのは

わたしは
『人に助けを求める』
という体験を受け取っていないこと

もともと長女気質で頼るよりも頼られることが多く、母が亡くなってからそれがさらに加速していました

何よりも

頼るとは、できないを晒すこと、できないを晒すなんてそんなことはできない

ここがネックになっている

そのことに気づくきっかけをくれたのが、同じ参加者のキャサリン。とても愛に溢れ、もうすぐ80歳という生きる力にも溢れた素敵な方。友達になってもらいました^^

わたしが、自分の『できない』を隠そうとしている限り、人の『できない』は本当の意味で受け取れない

わたしが『人に助けを求める』を自分に体験させないようにしていたら、同じ体験をしている人の話は真の意味で聴くことができない

つまりわたしは人の話を聞いている『つもり』になっていて、人のできないを受け止めている『つもり』になっていたということ

この気づきは結構ショックでしたが、今だから受け取れる気がしてます。そして同時に今できる最善に立っているのもまた確か。

しばらくこの『うけたもう』がわたしのなかでテーマになりそうです