映画『竜とそばかすの姫』@『表現』と『不完全なわたし』 その②

映画『竜とそばかすの姫』をみて
自分の中に湧き上がってきたことを書いております
(小説も買ってしまった!)

ネタバレ含みますので、観ていない方は見てから読んでくださいね

 

今回は前回から書き始めた
映画『竜とそばかすの姫』@『表現』と『不完全なわたし』 その①

の続きです

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映画を見た後にいろんな考察サイトを読みました
(考察サイト読むの好き^^)

そのなかに
”鈴が竜をあんなに気にかける理由が解せない”
という見解が結構あった

確かに!と思う反面
湧き上がってくる表現ってそういうものなんだともおもう

 

普通に考えたらそんなことしてもしょうがない
むしろ危険
何の得にもならない

でも
気になって仕方がない
やらないという選択肢がない

『表現する』
ってそういうことのように思う

 

これはわたしの勝手な予想だけど
鈴はここを理解したんだとおもう

『あぁ、お母さんもそうだったんだ』
と。

 

『なんでわたしを置いて
名前も知らない子を助けにいってしまったの?』
という幼い時の鈴の深い悲しみ

 

でもお母さんの中には
『鈴をおいて』
という枕詞はなかった

 

『名前も知らない子を』
という言葉もない

 

お母さんは目の前にいる子を助けにいく
それがお母さんの生きる表現だったんだ

 

これを鈴が理解したときに
鈴は表現をする
素顔のままで歌う

それがどんなに危険なことで
損得でいうと損しかなくて
死んでしまうのではないかというくらい怖いことでも

 

歌うこと
歌という言葉で竜を助ける(語りかける)ことが
鈴の表現だから

 

不完全という完全さ
不完全のままで突き動かされるものが人間のなかにはある

 

それが表に現れたのがきっと表現

 

今年の自分のテーマが表現だから
やっぱりここに琴線がふれます

2021年、今年の漢字はこれ!

 

先日繁田穂波さんの展示会に行った時のことを記事に書きました

青・蒼・碧の心に触れる作品_表現とはなんだろう

 

表現って自分の中から溢れ出る
『これをやるしかない、やらざるを得ない、やらないと生きているにならない』
こういう
”衝動”
に突き動かされるように表に現れることが『表現』な気がします

 

ここに
『不完全な私のままで』
という感覚がすごくフィットしたのが今回の映画をみた感覚でした

ここ数年、私のテーマが
『私は何かが欠けている、そして完全だ』

この一見矛盾している
なおかつとても大きな力が湧いてくる
この言葉をまたちがった手触りで感じる体験でした

ぜんぜんまとまってない文章を読んでくださってありがとうございます!
まだ書きたいことがいっぱいあるので、また出していきたいと思います

 

ここに書いている見解は
当たり前ですが完全なる私の私見です
これが正しいんです!
などどいうつもりは1ミリもありませんので
そこんとこご理解いただければと思います